こころ花のビタミン絵・美・詞

自然の美しさも、造形作品の美しさも、人間の心を安らかに慰め、洗い清め、励まし力づけてくれる親しさがあります。だからこそ人間は美にあこがれ美を愛するのでしょうか。

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立ち止まるゆとり

芸術にふれ、美しい風景のなかへ出かけ、
きれいな空気を胸いっぱいに吸いましょう。
日々の暮らしに忙殺され、たましいが誤作動を
起こさないためにも、人間にとってふと立ち止まる
ゆとりは絶対に必要なのです。

                                   「いのちが危ない」 江原啓之


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「花と風」
花はなぜ美しいのか、咲き散りかつ甦る、繰返す命の象徴であり、繰返しの一度
一度が新鮮だからであろう。
「花は咲き」「花は散る」のであり咲かねば散らず、散らねば又咲くこともない。

西行法師に
 「春風の 花を散らすと 見る夢は さめても胸の さわぐなりけり」
という和歌がある。
西行は桜の歌人、吉野山の歌人として有名であり、先の歌は「夢の中の落花」という
題を出されて作った題詠である。
桜の花のぞっとするほどの美しさがその落花時のすがたにあることをこれほど魅力的
に詠んだ歌も少ないのではないか。

花を「花」たらせるものが「花」の他にあるとすればそれは花を咲かせるものでなく
却ってもののみごとに花を吹き散らすもの、即ち「風」であろう。
日本文化の伝統のシンボルは「花」だけでは成り立たない。今一つ「風」の意味を
考える事で充足すると思われる。「花」は「風」に誘われてほころび「風」は「花」
を散らして甦りの新しさを用意する。互いにせめぎ合うことなく「花」と「風」とが
交互に”繰返し”露れて時空の綾を永遠に織り続けるのである。

永遠という縦糸と刹那という横糸の交叉する花時はとりわけ身にしみて有り難く思わ
れる。すべてに感謝、ありがとう。

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健康な心

肉体のためのビタミンは過剰に出回り、摂取されて
いますが、心のビタミンは大凶作。
みな、精神的栄養失調に陥っています。
健康な心を維持するためのビタミン、それが文化です。
音楽、美術、文学という古今東西の芸術、それこそが、
この世と人の心のゆがみを軌道修正してくれる栄養剤。


                                      「愛の話・幸福の話」 美輪明宏




            2010-3 005

          世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
          色紙 「在原業平の歌」 (赤羽 景雲)


在原業平の歌の通釈は
「この世の中にまったく桜がなかったならば、咲く花を待ち散り花を惜しんで
 悩むような事もなく、春を愛でる人の心も穏やかでいられるものを」
 となります。
しかしこの歌には、花数寄・花狂いの日本人の桜に寄せる心情のバラドックス
が詠まれているように思われます。
今も昔も、桜のない日本の春など思い浮かべることの方が難しい・・・。






2010-3 001

菓子銘 「菜の花」





2010-3 003

「仁清金銀桜茶碗」 御室窯  H 8.0  W 12.0
 




2010-3 004

「鉄絵木賊茶碗」 朝日窯 H 8.0  W 12.5





2010-3 002



下萌え急ぐ野辺の風景を心に描きながらBGMにはエリック・サティを流し
菜の花の菓子と桜の茶碗で一服。

今年は桜の開花が早いとのこと。「春の心はのどけからまし」
つかの間の平安を愉しみたい・・・。

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日本の昔の歌

日本の昔の歌の素晴らしさって、
理想を歌っていることだと思うんです。
自然の美しさや命を尊ぶこと。
今の時代で忘れられかけているのでは
ないでしょうか。

                                 下垣 真希 (ソプラノ歌手)




2010-2 001

「菜の花や 月は東に 日は西に」
蕪村の句(短冊) 梶原嫦人



日本の春は、黄色い花が幅をきかす。タンポポ、レンギョウ、マンサク、ヤマブキとみな黄色の春
の花である。その中で、菜の花の黄はことに強烈である。
菜の花は、油菜の花で、別名なたねともいう。茶の湯では利休忌までは席に入れない事になって
いる。
一般では3月3日の桃の節句に、桃の花と合せてお雛様に飾られる。また菜の花が群れをなして
咲いているのに出会うと、春をいっぱいに感じ目のさめるような思いがする。


2010-2 006

「春  宵」 原 希実子
(版画 43.0×58.0)




「菜の花のある風景」
菜の花には童画や絵本のような親しい気分がある。
  文部省唱歌「朧月夜」

  菜の花畠に入日うすれ
  見わたす山の端霞ふかし

メロディに乗せて歌うと郷愁にかられる。この野の眺めはやはり「菜の花畠」でなければならない。

菜の花や 月は東に 日は西に (与謝蕪村)

日は西に傾いて、先程の唱歌にあるように入日のかげは花にうすれるが、菜の花の黄はかえって
冴える感じで、畑いちめん、地上三尺に漂う黄色の海が暮れのこる。そこへゆらりと大きく丸い月
がのぼる。
出ばなの月は黄味を帯びて菜の花のむこう、まだ明るい空に低く懸っている。月も日も、菜の花を
軸にしてゆるやかに天空をめぐっているかのようである。
                                 (花に逢う 上田 三四二)





ここで、あらためて蕪村が俳句に描いた美の世界、ゆたかな心の宇宙を逍遥してみたい。

  春の夜や 宵あけぼのゝ其中に (与謝蕪村)

蕪村はこの句に、「もろこしの詩客は、千金の宵をゝしみ、我朝の歌人は、むらさきの曙を賞す」
という前書きを添えている。中国の詩人、蘇東坡は、「春宵一刻値千金」と詠んで春の宵の詩情を
讃えているが、我が日本では清少納言が「春はあけぼの」といって曙を賞している。だがその宵と
曙のまんなかにある「春の夜」もまた捨てがたいのではないかというのである。このように蕪村は
中国人と日本人の歌人とを対置し、さらに俳人である自分の好みを強調している。

2010-2 002

「曙 盆」 中村 宗悦
(漆芸 H2.0×W24.3)



  曙の むらさきの 幕や春の風 (与謝蕪村)

この句も「枕草子」の冒頭の一節
「春は曙。やうやう白くなり行く山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。」
より得たものである。

2010-2 003

「紫釉茶碗」 西村 源治



「春の宵」から「曙」のまでの時の流れに身も心もゆだねたいそんな季節が巡って参りました。

2010-2 005



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美しい世界

 ゆたかさとは何だろう。一言でいうなら、美しい世界のことだと、
ぼくは思う。何を美しいと感じるかは、むろん、人によって違うだろう。
けれど、美しい自然、美しい街並み、美しい住まい、美しい調度・・・
だれもが、そうした暮らしの中で毎日を過ごしたいと願っているはずだ。
 しかし、美しさは、こうした外的な世界だけにあるのではない。
そのような環境を願う心のなかにこそ、ゆたかさの根源が秘められて
いると言っていい。美しさをひたすら求める心、美しさを充分に味わう
ことのできる感性、美しさを夢見る想像力、これこそが真の文化をつく
りだすのである。

                                          「月は東に」 森本哲郎


                      
           2010-1b 004
             「蕪村の句」(短冊) 梶原嫦人

「うめ散るや 螺鈿こぼるゝ 卓の上」
与謝蕪村の傑作といってよい。卓上に散る白梅の花弁が、その卓をたちまち螺鈿をちりばめた
調度に変える。こうした梅のイメージをとらえた作品は蕪村以外にはみられない。

蕪村は江戸中期の画人であり、俳人であった。当時の日本社会は、現代から見れば、物質的
なゆたかさとは、およそほど遠いものだったろう。にもかかわらず、彼はなんと、ゆたかな心
の世界を持っていたことか。そうした心の世界を、現代の日本人は忘れかけているように思え
てならない。





2010-1b 002
「織部梅絵角皿」 八塔亭二寧 (H4.5 W23.5×23.5)



「梅について」
梅がいつ日本に渡来したのか記録はない。しかし8世紀初めに出来た「古事記」「日本書記」
に梅は出てこず8世紀後半に成立したと思われる「万葉集」でにわかに春の花の代表格として
188首に歌いこまれている。そこで梅は8世紀前半に中国から渡来したとみていいであろう。
「梅に鶯」という取合せは唐の文人がつくり日本の律令貴族がこれを観念として受容したもの
である。梅の花もその花に寄せた美意識もともに異国趣味だったのである。これらはすべて白
梅である。外国の文物の移植は、その先進性にひかれながら地方でうけいれられる側に内在
する意識の選択がはたらく。梅の移植が白梅からはじまったのもそのせいである。

「日本三代実録」貞観16年(874)8月24日に大風で倒れた木を記録しているが、その中に
「紫宸殿の桜、東宮の紅梅、侍征局の大梨とある。これが紅梅の出てくる初めである。日本で
紅梅がつくられたとは考えにくいから、紅梅は白梅から1世紀おくれて渡来して来たとみなす
のがいいであろう。紅梅が文芸に登場するのは平安の女房たちによってである。「枕草子」で
清少納言は「木の花は濃きも薄きも紅梅」と書き、紫式部もその「源氏物語」に「紅梅」の巻
がある。そこに源氏の孫、匂宮が一枝の紅梅をさして、紅梅は色のもので香りの方は白梅に
おとるというが、これは色といい香りといい立派に咲いたものだねというくだりがある。

紅梅は白梅より花期がやや遅い。梅花は春を告げる花だから、その開花の遅速にはことに
敏感になっていて紅梅は若干花が遅れることは知られている。白梅には早春の冷やかさが
あるが、紅梅には暖かさが感じられる。




2010-c 004
「紅梅」 井上清治 (紙本・彩色 45.5×53.0)



「紅梅賛」
ひとくちに梅といっても、白梅と紅梅とでは受ける感じが随分と違う。白梅には冬の名残りが
あるが、紅梅はすでに春そのものである。
白梅が冬の方からさし出された春へのメッセージとすれば、紅梅には春の方から、春を迎え
に季節の尖端まで出向いてきた趣があり、同じ梅園に並んで咲いていても両者にはそれだ
けの気分の違いがある。
                                      「花に逢う」 上田 三四二



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生活にロマンを

情緒障害を起こさないために
生活をロマンや情緒で満たすのです
美しい文字や音楽・・・
それを探し触れる暇がないという人は
細胞をむしばまれるがままにしておくしか
ありません

                           「愛の話・幸福の話」 美輪明宏




2010-1 020
「小鳥」 菅沼荘二郎

小鳥のさえずりに促されて、夜明けとともに新しい年がはじまるという気分にさせれる絵です。





美とはそれを観た者の発見である。 創作である。        「青山二郎文集」 青山二郎

2010-1a 001
「作品」 羽生 出

新年を寿ぎ天空に鳳凰(ほうおう)が飛来するイメージです。

「彩鳳舞丹宵」
サイホウタンショウに舞うと読み、めでたいものとして、茶会の一行軸としてよく掛けられます。
「彩鳳」とは五色の羽毛をもつ鳳凰のことであり「丹宵」とは赤い空のことで広く美しい空を意味
しています。この句は「五色の翼をもつ鳳凰が天下太平、万民豊楽を祝って出現し、雲一つな
い天空を悠々と舞い遊んでいるという意味です。

そんな壮大なロマンをイメージさせてくれるのが羽生出の「作品」なのです。新年の飾りとして
欠かせない一品です。






2010-1 002
「松の図」 殿村監田



2010-1 007
「若竹」



2010-1 011
乾山紅白梅絵茶碗

色紙の「松」、菓子の「竹」、茶碗の「梅」で松竹梅の取り合わせにしてみました。




2010-1 018
「小鹿田焼茶碗」

新春といえども冬の最中、子供の頃ふみしめて遊んだ霜柱を思わせる茶碗です。
芽のはる蕾のはる暖かな春を待ちたいと思います。

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